Monday, March 20, 2017

ふるさとについて考えるⅥ
帰国
 一人、海外に行って身の安全さえ確認できれば、全て新鮮に思え、また来たいという想いを胸に抱いて1週間かそこらで帰国する。その延長線とはちがいはないのだが、一人、住民票を移し生活を始めると、いろんなリスクが生じる。でも、慣れてくる。
 帰国して、あ、帰って来たなという象徴を書こう。恥ずかしい物もあるけど。
 すでに終了した 笑っていいとも!…そんなにしょっちゅう見ていたわけじゃないのに。
 次、吉野家の牛丼。1年に何度も食べるわけではないのに、無性に食べたくなる。
 ラーメン。説明はいらないでしょ。
 他にも出てくるものがあるが、一番恥ずかしくて笑われそうなのが、そう、金八、武田鉄矢。くれーなずむまちのーと聞くと、荒川沿いを散歩したくなる。心がホッとする。髪を横にかき上げながら、コラー このバカチンがーなんて怒られたら泣いちゃいそうだ。たまたま我々が金八世代だからかもしれない。小学校時代を思い出す。みんなこんな先生がいたらなーなって思っていた。でも、おふくろの味だのはどうでもいい、無理してやってる感じがあるから。
 海外とは限らず、知らない土地に着いたその夜は、10メートル向こうが暗闇である。例えば、高校卒業して、いろいろ迷っていた時、ギターを担いで井の頭公園近くの薄暗いライブハウスに行った。演奏させてもらえるかな、そう思っている時の井の頭公園は幽霊屋敷のように真っ暗に思えた。ところがだ、2、3年経って新しい仲間たちと、その井の頭公園に行ったら、なんて事はない、若い酔っ払ったカップルが、抱き合いキスし、じゃれあっていた。分かってしまうと神秘性もあった物ではない。
 最近は家族と海外に行く。最初から闇がない場所を選ぶから、神秘性を求めるなら、一人散歩するしかない。でも見ちゃうと同じ。
 美しいものは、3月末に南国に行き、真夏を感じて、四月初めに帰国すると桜が咲いている。1年頑張ろうかなって気持ちになるよね。


Thursday, March 16, 2017

ふるさとについて考えるⅤ
寮生活から池袋線
 サザエさん症候群という言葉をご存知だろうか。日曜日6時半になると憂鬱になる症状。私は12歳の時に強く感じたから、その後は逆に、早く月曜日になっちまえぐらいに、開き直るようになってしまったが。
 西武池袋線沿線、ジュンスカイウォーカーズのレッツゴー ヒバリヒルズの舞台にある寮。朝5時半起床、寒風摩擦、掃除洗濯、そして学校が始まると裸疾走をし、授業。農林畜産は ほぼやり、校内にパン工場があり、広大な農場や植林の山を持つ。男子は学年40人、女子は80人か…少子化でどうなっているかは分からない。
 有名人は、羽仁進、岸田今日子、幼児生活団は小野洋子、坂本龍一。
中高はジュンスカ。受験、才能教育とは縁の無い学校。
 土曜の午後から日曜日の夕方まで自由時間が与えられる。夜の街を散策するか、家に帰るかは自由だが、地方出身者が多く、基本は家に帰らない努力をする。
 最近周辺地域の出身の人と出会う機会が多く、昔話に花咲かせる。不良クループに気をつけろと言われ、南中、あくらつには気をつけろ、あと、ブラックエンペラーね。不良が多い時代だった。
 とにかく日曜の夕方、寮にもどらないといけないが、たまたま家でサザエさんを見ると、つらいのよね。寮に戻れば先輩が何を考えているか分からない人達だったから。
 ところが中二 中三 高一と上がっていくにつれ、慣れてくる。高三になると天国。私は生徒会委員長をやって、美大受験に向かったため、天国は味わえなかったけどね。
 そのせいで西武池袋線は縁が出来た。中一の時は駅名を知らなくていじられた。だって、それまで縁がなかったから。
 高二の時は大泉学園の美術研究所、高三からは椎名町、目白にある すいどーばた美術学院。

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 そして韓国帰国後の2回の個展は池袋の東京芸術劇場。もう10年前ね。ただ、昔より、何かが少なくなった。いかがわしさとか、闇とかかな。もともと戦後闇市から始まっているから。でも何か残っている。またゆっくり飲みたいね、池袋で。私はこの町で酒を覚えた。
ふるさとについて考えるⅣ
荻窪
 荻窪と下井草が関東バス荻10で未だに結ばれている。小さい頃は荻窪と下井草の違いが分からなかった。何故かと言うと、両方とも西友があるからだった。買い物といえば西友だった。タウンセブンがなかったから。
 荻窪西友の向かいに好味屋があったが、今はタウンセブンの中にある。ソフトクリームが美味しかった記憶があるけど、今食べると、そんなでも、やっぱミニストップが美味しいかん。その裏には露天商があったと聞くが、憶えていない。
西口、ボーリング場の一階か地下は映画館だった。
 北口、青梅街道を渡り、荻窪ドン・キホーテやパチンコ屋のあたりは東急ストアがあり、前にはペッットショップがあった。その裏、自転車置き場は成人映画館だった。もっと出てくるかな?…本屋がなくなくちゃった。
 小学校低学年までは、一人で荻窪に行けなかったから、妙な憧れがあった。
いま思えば日大二高だが、当時は勘違いで、杉並第五小、今の天沼小と称して、児童館の屋上から写生していた。延々と何枚も描いていた。こっち側から荻窪方向ばかり眺めていた。その児童館、そのままあるから、入れてもらったけど、屋上には行かしてもらえなかった。
 当時は厳しい担任にしか出会ってなくて、絵に関してはボロクソに言われていた、嫌な時代だった。戦前生まれの軍隊上がりの先生ばかりだから、殴られて当たり前の時代だった。でも、ずっと絵を描いていた。メゲずに好きで描いたよね。

今はそんな荻窪の憧れが薄れちゃったかな。