Saturday, June 30, 2018

四宮1番街短信4


西荻窪 某飲食店の女将さん、年は私の1つ下で、美人というだけで世の中を渡ってきたのではないかと思うぐらいの迫力の人だが、特技が、なんと善福寺公園でカブトムシを捕まえることだそうだ。さすが九州佐賀県出身である。

昔、私の住いは祖父母の家で、険しい雑木林だった。虫博士の私にとっては天国であった。ただし、カブトムシを見つけた事がなかった。一度だけ、築80年ほどの祖父母の家のトイレの網戸に、カブトムシがくっついていたのを誰かが見つけて、持ってきてくれた時もあったが、おそらくペットショップから逃げてきたんだろうとしか、私も含め、誰もがそう思っていた。
しかし、10年ほど前、武蔵野市に、井の頭公園で採集したカブトムシを養殖しているところを発見、真隣の杉並にも、カブトムシがいないはずはないと思っていた。


クワガタ、カナブン、カミキリムシは祖父母の家にもいた。私の特技はカナブンのオスメスを見分ける事だった。カブトムシは成虫が300円、幼虫が100円で、下井草駅前のペットショップで売られていた。天然のカブトムシは、父の会社の同僚が九州出身で、夏になると仰山捕まえてきてくれたくらいしか知らなかった。

中学、寮のある特殊な学校に入れられ、私は養豚をさせられた。養豚場のトイレにはオガクズが敷かれていて、おがくずの混ざった糞は、堆肥として積み上げられる。時間が経つと尿、糞の匂いがなくなり、掘り返すと、白い饅頭虫、そう、カブトムシの幼虫がウジャウジャいるではないか。しかし既に興味が無くなっていた。
夏の明け方にでも、子供たちを起こして善福寺公園に行ってみようかしら。その女将さんにコツを教わって。

四宮1番街短信3


若い頃から今に至るまで、私の苦手なもの、それは、試験の結果を見る事。得意な人が以前は羨ましかった。入試全部合格するとか、資格試験が大好きでヒョイヒョイ受ける人とか。

今、この歳になって、もっと苦手なものが出てきた。健康診断である。
今年に入って、初めて胃カメラで検査をした。以前は大腸検査をした事があったが、結構大変で、嫌だなと思ってたけど、急にやる気になった。
大腸検査と違い、検査自体は楽だった。記憶もなかったし。問題はその後である。
  
検査が終わった後、看護婦が何気に、組織を2箇所取ったと言う。えっ!? ということは異常があるという事である。
検診でお医者さんが、胃に炎症があり、嫌なものの可能性があり、精密検査が必要だという。
結果が出るまでの2週間、えらく長かった。遺書だか遺言書でも書こうかと思ったよ。
2週間後、結果がきた。パッと見て、「癌の所要なし」という文字を見て、すぐに破り捨てたよ。ぐっすり寝れたよ。
私どもが生まれた時は、まだ東京も古い家が多く、井戸水を飲むのは当たり前だった。
ヘリコバクターピロリ菌、感染元はそこが有力で、5歳までに感染する。私も例外ではなかった。
今住んでいる場所は、以前は母方の祖父母の家であり、家の中に、井戸水を組み上げる装置と巨大なタンクがあり、水道水を使っていなかった。水道水は、夏は生暖かく、冬は冷たい。しかし井戸水は、夏は冷たく、冬は暖かい。カルキもないため、金魚を買うには、そのまま使える。まるで良い所尽くしである。
しかし、それから数十年後、確か雑誌の広告だかでヘリコバクターピロリ菌のことを見た。まるで他人事だったけど。
私は元々胃腸が弱く、高校時代から、病院に行けば十二指腸潰瘍だと診断されていた。太田胃散や、正露丸は必需品だった。人に話せば、「繊細なのよ、くよくよしすぎよ」と言われた。
しかし、40代後半になり、そうでは無かったんで有ろう事を知るのであった。

Sunday, June 10, 2018

四宮1番街短信2


 聞きなれない旧地名がある。神戸と書けば「こうべ」と普通は読む。我が家の真隣の土地から、環八を渡り、清水3丁目にかけて、昔は『ごうどちょう(神戸町)』と言われ、公園の名前や、御長老達の新年会に名残がある。早稲田通りをまたいで、向こう側が柿の木町。図書館がまだ健在である。やはり、柿の木同志会、四宮神戸同志会のように、昔からの町内会が現在も存在する。
 現在の地名、今川も決して悪くはない。戦国時代、今川義元が織田信長に倒され、その家族が生き逃れられ、この地に住んだのは、小学校の社会科でも習った。
 我々の小学校の先生といい、近所のご長老と言い、まるでその時代を生きたかのように、歴史を語る。徳川家康より俺は偉いんだと言いたいばかりの勢いで、我々の祖先についても語る。
 オタクの家は源二さんの家だったと聞くが、戸籍には残らない、相当昔の話である。斜め向かいははしご屋だとか、色々あるらしいけど、聞いては、あーそうですかで通り過ぎる。また同じ話かよと思いつつ、気持ちよさそうに話す老人の声に耳を傾ける。
 うちが本家でオタクは分家、あーそうですか(だからなんなんだろう)

--> そうよ、よく聞いておきなさいと周りの人。しかし話した老人が席を離れると、いいの いいの、聞き流せばいいの。暗黙の了解である。

Saturday, June 9, 2018

四宮一番街短信1


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 FB、最初はどう使うか思いつかず、すぐに退会したが、2010年前後、横浜で個展をしている時、暇つぶしに何か載せようかと思ったと同時に、韓国での大学院時代に、ろくに話したこともない人から友達申請があり、だんだん腰が入ってきた。
 当時、学校に行けば会えると思い、ろくに話もせずに時間がすぎた気がしたが、卒業して会わなくなると、嘘のように寂しい。昔はどんな学校に通おうと、他人の人生には全く興味がなかった。あ、就職したの、あ、結婚したのぐらいで、なんとも思わなかったのに。別れても知らんぷり。
 韓国の某有名大学大学院、学校を出ちゃうと、会えない。学校にいるはずの人たちがもういない。韓国にわざわざ行ったって、会えるわけではない。当然学校に行ったて、芝生と運動場の上を風が吹くだけ。FBは、そんな私の心の隙間を埋めてくれた。日本にいながら、海外の彼らと交信できる。
 動機はそんな感じだった。あとは、日本の飲食店で出会い、些細な時間をともにしてきた方などとも連絡が取れた。
 日本の旧友は…人生色々で、覗かないほうがいお互いのためだと判断して、踏み入れないことにした。
 そんなこんなだが、10年経とうとして、私も、主に子育てについては書き尽くし、毎日出てくる『過去のこの日』の数も、いつか『0』なるだろうことを待ちつつ、他の方の記事を眺めるようになって行った。
 FBの今後、懸念もささやかれているけれし、インスタにも流れているけど、どうなんでしょうね、今後。あれ? 書きたいことがわかんなくなちゃった。お腹すいた。

四宮一番街短信

四宮一番街短信
 四宮一番街、実在しない街であるが、過去には、早稲田通り沿いに商店が並んでいたのを憶えている。2010年位までは、かろうじて、その名残があった気もする。
 はっきり憶えているのは1980年代中旬、私が中学3年の時、私立中学に通い、先輩に可愛がられ、部活と労働に励み、家に帰ればバッタリ寝るような充実した時期、この商店街を眺めながら、安い変な缶ジュースを飲みながら、毎日家に帰った記憶がハッキリとある。
 住宅街に、ポリエチレン工場があり、前を通ると、冷たい液体がかかるのだが、濡れはしない。なんだったんだろう。揮発性の高い液体だったんだろう。金物屋、肉屋、八百屋、あったねー。
 人生ぐるっと1周し、海外生活をしたりして、あっ、懐かしいな、戻りたいな、しかし、今はもうない。巨大なマンション群と大型スーパーに飲み込まれてしまった。

-->  FBの過去の思い出の数が減る中、なんか、書いて見るかって気になってきた。