Tuesday, January 22, 2019

四ノ宮一番街短信21

四ノ宮一番街短信21
 井草同志会の新年会に出席した。
私が初めて出席したのが2006年で、最も低年齢であったが、不思議なことに、今まだに変わらず年下で、最高齢92歳の地域組合組織である。以前は最後に、最高齢の方が出口で見送りをしたが、今年は60台で、急に平均年齢が若返ったようにも思える。
いつも挨拶にいらっしゃる、都議会議員の方も私より一つ年上で、いまだに、やあ!兄弟という感じで挨拶する。

最初は韓国からの美術品を売る作業で一時帰国した時に、いきなり頼まれ、ぶっきらぼうに出席した。荻窪の白山神社にゆき、場所を聞きに行くと、神主らしき人が出てきて、偉そうに話す。久しぶりに偉そうな日本人を見たな、と思いつつ。少々遅れて行った。
韓国では約束事は当日にするし、待ち合わせ時間ぴったりか、5分遅れでゆくため、私も慣れてしまい、余裕かまして行ったら、高齢の老人方がすでに、静かに何処そこ会長の挨拶を聞いている。参ったなーと思いつつ、近くに座る銀行のお偉いさんらしき人が、挨拶してきたため、冷や汗かきながら、祖父の名前を言うと、さらに長老の方を紹介された。
正直、苦手だった。海外テレビニュースや、CNNヘッドラインニュースで、靖国神社公式参拝とか、総理官邸の様子を映したような、物々しい雰囲気を見るに耐えられなかった。

最近、決して慣れたわけではなく、恐らく時代が変わったり、世代交代の波がやってきたのだろう。以前のような雰囲気はなくなり、返って楽しみになってきた。以前は色んな理由を言い訳に抜け出したりサボったりしたが、今は進んで挨拶もする。

以前は祖父の名を借りて自己紹介をしていた。あ、鎌さんのお孫さん、てな感じだった。以前は苦手な偉そうな人とか酒癖の悪い人もいて、近寄らないようにしたりしていた。訳のわからない先代の話をして喧嘩を売ってくるから、幽霊としゃべっているんじゃないかと思うくらいだった。出てくる名前が、昔、爺さん婆さんの夫婦喧嘩で飛び出してきた名前ばかり。面識がないから弱ったなーと言う感じだった。最近は面倒なことがなくなったね。みなさん、私を覚えてくれたね。もう一回りたつからね。

Thursday, January 17, 2019

1995年1月17日を思い出す


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 日曜日の昼下がり、仲間とライブをやって、友人も多く、両親も来てて、オリジナル曲に弦楽器まで入れて、渋谷のアコースティック・ライブハウスで演奏をした。打ち上げもした。     
出演者みんな家に泊まって、いつも通り音楽ビデオを見ながらビール飲んで、なんとなく寝て…
 起きて、テレビをつけた。焼け野原で煙が上がっている。えっ? 戦争が始まったの?
 あれが最後だったね。希望と夢だらけの日本の国のはずだったのに。

 東京に住んでいれば無関係だと思われがちだが、私の中では、何かが崩壊した。強がったふりはしていたけど。

 でもライブは続けた。まず客がこなくなった。メンバーや友達も、一人、また一人と離れていった。最後の一人になった時には、また新しい友達ができていたけど。今思えばいい人たちだったけど。

 例外なく、ステージで歌う人は言う。収益金は阪神淡路大震災のために寄付すると。私はあえて言わなかった。
ある人なんか熱く語っていた。その人は子供奥さん連れだった。
困った人がいたら助けないといけないと思う、その正義感に疑問を抱くと。助けたいと思うと、そこで心が救われるわけである。
その辺から、また出てくる言葉が、売名行為。もともと経済効果の伴わない人が言うとそうなる。しかし、人々もバカじゃないから、相手にしない。売名行為以前に、声がこだまするだけ。

そう言えば、同じ年のクリスマス、ビートルズが25年ぶりのニューアルバムを出した。同時に、私の希望や夢の一つが崩れた。世の中にビートルズはすでに存在しないと悟ったのである。あれだけ聞き込んで、本もチェックして、何か成功の手がかりを音楽から見いだせるのではないかと思ったのだが、…思えば確かに物事は、思い通り、考え通りにはいかないものである。ジョンレノンはとっくに亡くなった人だった。
 震災前年に学校を卒業した私は、エンターテイメントの最先端に行きたいと思い、まずライブハウスのオーディション、絵を描く会社に就職もした。友達も恋も、欲しいものは全て手に入れているように見えた。しかし全部失ったような思いがした。鬱だった。

あの震災や、もろもろの出来事を機に職を変えた。それが偶然にも、かの有名な元音楽プロデューサーのTK氏の出身校で、たまに甲子園にでる、あの学校だった。私は例の音楽プロデューサーが大嫌いだったと言うか、批判的だったが、その学校の音楽の先生とかは、学生時代の彼を知っていて、どうだったか話してくれた。どうでもいいことだったけど。
当時は知らなかったが、そのTK氏も不況だったことを後に知る。私の感じていた音楽の危機感は、どうも彼のせいではなかった。CDバブルの崩壊、不況だった。自分はどうでもいい、ただ、文化が崩壊しそうな恐ろしい危機感と戦っていた。

偶然、学生時代の京都出身の後輩と出会い、一緒にレコーディングをした。一緒に福生の米軍基地周辺を散策したり、京都の実家まで遊びに行った。恥ずかしかったけど。
その数週間後、色んな価値観をぶん投げて、韓国語の勉強を始めた。それが、まさかこんなに大きな人生展開なるとは思いもしなかった。そして、20年がたった。
色々ぶん投げたけど、ライブは韓国でも続いた。

Thursday, January 10, 2019

30年前の平成前夜


 あれから30年たったんだと思う方、多いと思う。ただ、昭和と違って、レトロを語る上で、その時代は出てくるだろうか。バブル期ジュリアナ東京なんて言葉は聞くが。

 私は正直、美大受験の直前だった。第2次ベビーブーム前後の我々の世代、自分らしく生きようなんて思う人が多く、また、バンドブームもあって、美大に憧れる人が多かった。倍率が、普通の時代の1.5倍ぐらいあったのかな。
 なぜバンドを好きな人が美大に行きたがるのかというと、成功したバンドが割と美術学校生が多いからである。みんなデザイン科だけれど。
 大概の大学などは偏差値があるが、美術大学は偏差値では計れない部分が多く、受かるか受からないか、満点か0点かである。予備校でトップクラスの人が落ちるかと思えば、勉強のみが、やたら出来る女子高生が受かるとか、蓋を開けないとわからない部分があって、不安もあった。5浪6浪なんて人もいるし、とっくに大学卒業して、就職して、30過ぎて美大を志す人もいる。試験の2ヶ月前までスポーツをやっていた現役生が、あれよ あれよと実力を伸ばし、あっという間に芸大に受かるケースもあった。
 筆記試験が終わり、3、4人で何をどう答えたか話している時、みんなAと答えたのに、私だけBと答えた。その時、周りの多数派は、自分たちが受かって、私が落ちたとでも言いたげな顔だった。しかし、逆で、私が一人受かっていた。そんなこともあったね。すごく辛かった。ラッキーと思えなく、友達を一気に失ったような気分だった。また、物事の終わりは、新しい物事の始まりであり、闘争心も不安も、休みなく変わりゆく。

 そんな時期、よく一人暮らしをしている友人の部屋にいて、深夜にテレビ局前の風景と、テロップで、天皇陛下の御容態が変わり次第、お伝えしますと、左から右に流れる文字を見ていた記憶がある。震災の時のテレビの雰囲気と、かぶる感じだったような気がする。

 私の頭の中では、平成の年号が思い出せない。昭和何年に何をしていたかは思い出せるが、平成からは、なぜか西暦で物を考えるようになってしまい。平成何年に何があったか、計算して、確認しないと頭に浮かばない。その理由の一つは、年齢的に外国人との接触が多かったからかもしれない。

 そして、平成がどうだったというより、昭和が終わったという認識の方がなぜか大きかった。

そして、美大在学中、軽トラックで運送屋をやってる時、砧公園は桜が満開で、環八に車が一台もなく、無情にもラジオからニュースが聞こえた。バブルが崩壊しましたと。ピントはこなかったけどね。

そういえば、ひばりさんが亡くなった。私の時代ではないから理解に苦しんだけど、川の流れのようにだとか、裕次郎の我が人生に悔いはないとか、シナトラのmy wayの日本語バージョンなど、生き様を歌った歌が流行った。