Thursday, January 10, 2019

30年前の平成前夜


 あれから30年たったんだと思う方、多いと思う。ただ、昭和と違って、レトロを語る上で、その時代は出てくるだろうか。バブル期ジュリアナ東京なんて言葉は聞くが。

 私は正直、美大受験の直前だった。第2次ベビーブーム前後の我々の世代、自分らしく生きようなんて思う人が多く、また、バンドブームもあって、美大に憧れる人が多かった。倍率が、普通の時代の1.5倍ぐらいあったのかな。
 なぜバンドを好きな人が美大に行きたがるのかというと、成功したバンドが割と美術学校生が多いからである。みんなデザイン科だけれど。
 大概の大学などは偏差値があるが、美術大学は偏差値では計れない部分が多く、受かるか受からないか、満点か0点かである。予備校でトップクラスの人が落ちるかと思えば、勉強のみが、やたら出来る女子高生が受かるとか、蓋を開けないとわからない部分があって、不安もあった。5浪6浪なんて人もいるし、とっくに大学卒業して、就職して、30過ぎて美大を志す人もいる。試験の2ヶ月前までスポーツをやっていた現役生が、あれよ あれよと実力を伸ばし、あっという間に芸大に受かるケースもあった。
 筆記試験が終わり、3、4人で何をどう答えたか話している時、みんなAと答えたのに、私だけBと答えた。その時、周りの多数派は、自分たちが受かって、私が落ちたとでも言いたげな顔だった。しかし、逆で、私が一人受かっていた。そんなこともあったね。すごく辛かった。ラッキーと思えなく、友達を一気に失ったような気分だった。また、物事の終わりは、新しい物事の始まりであり、闘争心も不安も、休みなく変わりゆく。

 そんな時期、よく一人暮らしをしている友人の部屋にいて、深夜にテレビ局前の風景と、テロップで、天皇陛下の御容態が変わり次第、お伝えしますと、左から右に流れる文字を見ていた記憶がある。震災の時のテレビの雰囲気と、かぶる感じだったような気がする。

 私の頭の中では、平成の年号が思い出せない。昭和何年に何をしていたかは思い出せるが、平成からは、なぜか西暦で物を考えるようになってしまい。平成何年に何があったか、計算して、確認しないと頭に浮かばない。その理由の一つは、年齢的に外国人との接触が多かったからかもしれない。

 そして、平成がどうだったというより、昭和が終わったという認識の方がなぜか大きかった。

そして、美大在学中、軽トラックで運送屋をやってる時、砧公園は桜が満開で、環八に車が一台もなく、無情にもラジオからニュースが聞こえた。バブルが崩壊しましたと。ピントはこなかったけどね。

そういえば、ひばりさんが亡くなった。私の時代ではないから理解に苦しんだけど、川の流れのようにだとか、裕次郎の我が人生に悔いはないとか、シナトラのmy wayの日本語バージョンなど、生き様を歌った歌が流行った。

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