Sunday, December 23, 2018

四ノ宮一番街短信18

四ノ宮一番街短信18
 私は何かしらで宗教をチェックする時は、特に無しとしている。墓がお寺にあるとか、法事、それから神社の参拝は、習慣、風習と説明する。
 普通、いろんな神社は参拝するが、観光地以外のお寺は、特に用事がなければ入らないと思う。
 実は私の自宅の目と鼻の先に、観泉寺という立派なお寺がある。外から眺めてはいるものの、敷地に入ったのが、今日が初めてである。不思議だ。急に思いついて、参拝してみた。しかし、思い出すのは、中高6年間、学校に通う時は毎朝、この寺の脇のバス停で乗った。誰でもそうだが、若い頃の思い出は、いい思い出より、思い出したくない経験の方が多いと思う。ただ、土曜の昼下がりにバス停を降りて、この寺を眺めると、ほっとしたような気がする。
 
 最近、少しだけれど分かってきたのが、神社と寺の違いである。たまに、海外の観光客にも聞かれ、説明できるようになった。それよりも、何をどこでお祈りすべきかまで、悟ってきた。

 昔、キリスト教の特殊な中学高校に通わされた。内村鑑三 無教会主義の学校であるが、実は建前で、無教会主義の教会がある。違うとすれば、誰でも礼拝ができるという点だ。子供の頃は誰でもそうだろうが、宗教について深くは考えない。クリスマスにプレゼントだとか、サンタさんがいるだとか信じる、信じないだとか、子供たちは普通に話す。私が信じないというと目を丸くして、お父さん、信じないんだって、という。すかさず、だってお父さんがサンタさんだからという。すると、じゃあ何かちょうだい…可愛くねー

 ただ、心に刺さった言葉があった。忘れもしない中学3年の夏休み、内村鑑三 後世への最大遺物という本を読まされた時の内容である。キリスト教徒とは何かという定義が書かれていたが、その時、私はキリスト教徒ではないと自覚したような気がする。だから、時折教会だか聖堂とかに行っても、よそから来たお客さんの顔を崩せない。

 物事を決めつけず、曖昧に考える事は大事である。でも自身の基本理念はあって然りである。

 昔、ラッセルの哲学書にあった話、少女に地球が太陽を回っていると説明したら、信じないという。地球はしっかりここにあって、太陽が回っているという。さらに、私は見えないものは信じないと言った。すると、質問者はこう切り出した。じゃあ神様は信じないのねと。すると少女はハッとしたような顔をして言った。神様はいるわ、だって私がここにいるんだもの。…見えないものわからないものがあるから、今日の暮らしができるんだな。

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